一人でやってる社長の色々ブログ

好きなこと、趣味のこと、嬉しいこと、気になったことことなどを気楽にアップしていきます。

2010年12月28日火曜日

危機感を持つということ ~事故に想う~

年の瀬になってきました。
世の中が慌しくなってきていますね。

そんな中、最近新聞やテレビでも大きく取り上げられた交通事故が2件もありました。
2件とも、何の責任も無い小さな子供が命を落としています。

年末だから事故が多い、という訳ではないのでしょうが、
痛ましい事故が続けざまに起こると本当にやりきれない思いで一杯になってしまいます。

突然ですが、僕は18歳の頃から約10年間、400ccのバイクに乗っていました。

東京や神奈川での生活に区切りを付けて長野に戻る時に売り払ってきてしまったので、
それからは乗っていませんが、今でも「あぁ、バイク乗りたいなあ」と思う時もあります。

そのバイクで、僕は大事故を起こしたことがあるのです。

免許を取り、喜び勇んで中古のバイクを買い、
乗り始めて2ヶ月が経った19歳になろうとする夏の事でした。

土曜日の午後、場所は東京の皇居周辺。
その場所は皇居の堀に向かうなだらかな下り坂。とても広い道だったのですが、
奥に行って曲がりがきつくなる緩やかな右カーブを曲がりきれず、
歩道脇の立ち木に激突したのです。

自分の体は大きなダメージを負いました。左肘の関節の骨が砕け、
左側の腰骨(骨盤の端です)が欠け、左側の腎臓を強打してその機能が一時停止、
それだけでなく腎臓から大量に出血してトマトジュースのような血尿が出て、
緊急で輸血をしたものの一時ショック状態となり、呼吸困難を起こしました。

急いで駆けつけてくれた当時一緒に暮らしていた兄や、兄の友人は
「こいつはダメかも知れない」
と本気で思ったといいます。幸いその状況からは程なく脱し、肘の整復手術も行うことができました。

その後、日常生活には支障がない状態になりましたが、1ヶ月半の入院を余儀なくされたうえ、
家族だけでなく当時の職場の方々にも多大な心配と迷惑をかけることになってしまったのです。

今では日常生活には全く支障はありません。神経も大丈夫だったので指先の動きも普通です。
僕は左ききなのですが左手でボールを投げて野球もできます。
でも、当時の手術で2本の釘と2本のワイヤーで整復した左肘は、
今でも真っ直ぐにならないばかりか、曲げる方も70度くらい(右側は一杯に曲げれば45度くらい)
にしかなりません。

体のほうはこんなダメージを受けたのですが、「木」を相手にした自損事故だったため、
自分のバイク以外に物損がなく、また、自分以外の誰にもケガをさせる事がなかったのは
本当に幸いな事でした。

そんな事故を起こしたのですが、自分はバイクを降りませんでした。周囲には
「危ないからやめろ」
という声が多かったのですが、もっと走りたかったんですね。

でも、運転はとても臆病になりました。
いつも、危機感を持って運転するようになりました。

「あのバスの陰から人が出てくるかも」
「前走ってるタクシー、急に止まるかも」
「このカーブ、途中で砂が浮いてて滑るかも」

田舎住まいで車しか運転しない今でも、その恐怖は薄れることがありません。

「あの路地からお年寄りが出てくるかも」
「駐車場の車の陰から子供が出てくるかも」
「停車している車のドアが突然開くかも」

・・・切りがありません。

でも残念な事に、街に目を向けるとそんな危機感を全く持ってないかのような車が
とても多く見受けられます。

駐車場の中なのに凄いスピードで疾走していく車。
異常に車間を詰めて走る車。
路地から広い道に出る時に歩道の手前で全く止まる素振りの無い車。
横断歩道でお年寄りや子供が待っているのに全く止まらない車。

・・・これも切りがありません。

運転に関する事だけでなく、最近はこんな事もありました。

用事があって夜11:30頃に行った24時間営業のスーパー。
駐車場にエンジンをかけっ放しにした軽自動車が一台ありました。
中をチラッと見ると、運転席には誰もおらず、助手席にチャイルドシートに座った赤ちゃん。
そして後部座席には姉妹と思しき小さな女の子が1人。2人とも眠っていました。
子供だけを車内に残して放置すると、国によっては逮捕されます。虐待とみなされるからです。
でも、遅くまで仕事してた母親なんかがどうしても必要な物があり、
仕方なく短時間買い物に行ったのかな、と思いつつチラチラと心配しつつ誰か戻ってくるまで
自分の車内で様子を見ていたのです。

しかし、驚いた事に戻ってきたのは若い夫婦でした。
それも子供たちを心配する様子は全く無いかのように談笑しながら。
鍵もかけていない、エンジンかけっぱなしの車内に子供たちが無事でいる事は、
彼らにとっては「当たり前」の事のようでした。。

両親が揃っているのなら1人は車内に残るべきでしょう。

前述の運転マナーの件と、今書いた子供を放置する親に共通しているのは、
「危機感がない」ということだと思います。

起こり得る最悪の事態を全く想定していないのです。
「え?大丈夫だろ?」と、全く根拠の無い予断しかありません。

時に人の命を奪ってしまう事故というのは、もちろん避け切れないものもあると思います。
でも、少しだけ気を付けて、その時起こり得る最悪の事態を想定した
「危機感」を持つことができれば、避けられた事故は多いのではないでしょうか。
それが「身を守る」という事につながっていくのではないかと思います。

長文になってしまいすみません。
自分ももうすぐ家族が1人増えます。
本当に事故には気を付けて、家族を守っていきたいと思っています。

2010年12月25日土曜日

初めての感覚(子育てにまつわるお話)

前回まで書いていたロス・アラモスシリーズを書こうと思っていたのですが、
ちょっと思うところがあったので今回は別のハナシです。
(子育てに関する内容です。ご興味ない方すみません・・)

12月24日。この日はもうすぐ3歳になるうちの息子が通う保育園の最後の登園日でした。
年末の最終日、ということではなく、本当に最後。先生やクラスメートともお別れです。

この保育園は自宅から近い訳ではなく、カミサンが通勤していた会社への
途上に位置していたこと、それと最初に通わせ始めた時息子はまだ10ヶ月だったのですが、
未満児を受け入れてくれる保育園がその当時はそこしかなかったんですよね。

そんな中、カミサンが来年2月に2人目を出産、ということになり、勤めも10月末で辞めることに。
つまり、息子を家から離れた保育園に通わせ続ける理由が薄れてきた訳です。


年明けからカミサンは出産に備えしばらく実家に戻ることも決まりました。
そんな訳で、今通わせている保育園は年内一杯で退園させて、
春から自宅近くの保育園に新たに通わせよう、という事になったのでした。


で、昨日12月24日、学校でいう2学期が終了する日だったのですが、この日が最後となりました。
最後の日なので、夕方のお迎えには夫婦ででかけてきました。←仕事しろよオイ



息子はクラスメートに作ってもらった折り紙の花束を持って部屋から登場。
今の担任だけでなく、10ヶ月の頃から2年間世話になった何人もの先生たちにたくさん声を掛けられ、
状況が分かってるのか分からないのか、若干照れくさそうな息子。

そんな姿を見ていたら、何かこう、不思議なんですが不思議と寂しさが沸き起こってきたんですよね。
自分が退園する訳でもないのに。(別にカワイイ保育士の先生がたくさんいたからぢゃないですよ)

家に帰ってからもカミサンと話しながら色々考えているうちに思ったのですが、
どうやら自分も知らないうちに息子とその保育園に通っているような感覚があったのかも知れません。

初めての子育て。子供ができる前には分からなかった色々なシチュエーションに
自分としても興味を持って取り組み、息子が保育園に通い始めてからも
園ではどうだったのか、連絡帳で伝えてくれる息子の様子に色々想う日々。 
カミサンが忙しかったり体調悪かったりした時には送り迎えもしてました。

40ウン歳の自分が言うのも相当キモいと言わざるを得ませんが、
子育てに奮闘するうちに保育園や先生方にも親近感を持ってたようです。
変な話、自分も一緒に成長し直しているような(笑)
オッサンの幼児化・・・これはこれで相当怖いですけど。


だから、最後の日に去る時、無意識のうちに自分の中にも「お別れ感」が募り、
寂しさが沸き上がってきたのだと思います。
息子が通った善光寺保育園。仏教系だから云々は別として、とても良い保育園でした。


来春からは新しい保育園に通うことだし、きっとそこでも良い先生がいて、
新しい友達もできるでしょう。彼にとって楽しいことがまたたくさん待ってます。
家族がもう一人増えてから、自分の中にどのような心境の変化が起こるかまだわかりませんが、
家族と共に自分も色んな意味で成長したいものです。

え?そんな事よりもっと稼げ?
そりゃわかっとりますがな・・・

2010年12月23日木曜日

哀愁のロス・アラモス(2)

時は1995年末、というか実は1996年の正月だったのですが、
前回のエントリでやってきた米国カリフォルニアのロス・アラモスという小さな街。


サマランチに似たオヤジさん経営するモーテルに辿り着き、腹も減ったので
近くにある、夜8時までしかやってないというレストランに行くことにした。
レストランはTWIN OAKS RESTAURANTという名前。

調べてみたところWEBサイトは見つからなかったのだがYouTubeに動画がアップされてた。
どうも去年唐突に店自らが動画を3本ほどアップロードしたらしいのだけど、その後全く
放ったらかしにしてるみたいだ。やる気ねぇなぁ。
ちなみに外観は記憶とほとんど変わらなかったけど、内装は新しくなったみたい。もっと前は
茶色というか木の色を多く感じる内装だった気がする。

前置きが長くなりました。
それでもって店へ入店。既にもう暗くなってた記憶がありますが、
恐らく地元の方々と思われるおじさんたちが結構来てました。
自分も席に案内され、とりあえずビールなんかを頼んで、グビりとしながらメニューを見ます。
内を食べようか、と若干の悩みと戦いつつ、脳内では

「肉だよ肉。おいオマエ、アメリカ来たら一度くらい肉食っとけよー」

と、悪魔なのか天使なのか分からないやつが意思決定のイニシアチブを取ってます。
それで仕方なく(本当は自分から進んで)メニューにあった
ニューヨーク・ステーキなるものを注文することにしました。
ちなみにカリフォルニアでニューヨーク?なんていう野暮な質問は無視しますよ。

でもちょっと待て。

・今は腹が減っている
・想定されるボリウムはステーキ通常サイズ+付け合せチョロチョロ+パン位だ
・それだけで足りるのか?
・しかもビール飲んだら食欲増進したぞ
・じゃあサイドメニュー追加しちゃう?
・おう!頼もう頼もう!

と、上記のようなやり取りがこれまた脳内で3秒ほどのうちに行われ、
サイドメニューも頼むことに。
アペタイザーの欄を凝視し、検討の結果、追加メニューはオニオン・リングに決定しました。
この決定がいかに重要だったかを知らずに・・・

ウエイトレスのおねーちゃんを手を挙げてオーダーします。
メニューに書いてある事を伝えるだけなので特に難しくありません。
ステーキの焼き加減は「困った時のミディアムby俺」だし。


あー腹減った。と思いつつ、今日のドライブを思い起こしたりしてると、
程なくしておねーちゃんが皿を持ってやってきます。

ん?ん?

「どーん」とテーブルに置かれたもの・・・・それはオニオン・リングでした。

「うわぁ」。思わず呻き声を出してしまう僕。

そのオニオン・リングは、直径25cmくらいの皿に、標高10cm以上はあろうかという
ブラウン色に輝く山脈を形づくっていたのです。(写真がないのが残念です)
心なしか、皿を持ってきたおねーちゃんがニヤリとした気がしました。

それからはひたすらオニオン・リングとの戦いです。
オニオン・リングを、食う、食う、食う・・・
食べても食べても減らない・・(ToT)

さすがに辛くなってきたので、「もういいや、ステーキ来たらそっちに移行しよう」と思ったのですが、
それがなかなか来ない!をい!ステーキまだぁ??


厨房の方からこっちをチラチラ見てる白衣の厨房マンがさっきからいたのですが、
そのうちに、ある事に気が付きました。

こいつらオニオンリング食べないとステーキ持ってこないつもりだ!!!!(´Д`;

素晴らしいサービスです。お客のペースに合わせて、最適な状態で料理をサーブする。
私が覆面審査員だったら高く評価するポイントでしょう。
でも、この時だけは早く持ってきて欲しかった・・・。(まぁリクエストすりゃ良かったんすけど)

やっとの思いでオニオン・リングとの死闘に決着がつこうとした時、
満を持してニューヨーク・ステーキが運ばれてきました。
しかしステーキの味わいに関する記憶は全くと言っていいほどありません。メインなのに。

それでも食べました。食べ終わりました。
皿を下げに来たおねーちゃん。ニコリと笑って一言「Good Job!!」だって。
しかも「デザートはどう?うふ」と来た。
丁重にお断りして店を出てきたのは言うまでもありません。

でも、後から考えればドギーバッグを頼んで宿に持って帰れば良かったんだよなぁ。
ま、いいか。
でも皆さん、このレストランに行ったらオニオン・リングは要注意です。お気を付け下さい。

腹をさすりつつ店を出る自分。もう帰ろう。休もう。
と思ったのですが、レストランのはす向かいあたりにある、
昼間は気付かなかったバーの存在に惹き付けられたのでした・・・

次回に続く・・
(次回はちょっと真面目な話も出てきます)

2010年12月21日火曜日

哀愁のロス・アラモス(1)

もうかれこれ15年前の話です。
( ていうか「15年も前の話書くなよ!」というご意見もありそうですが無視無視♪)

思い起こせば95年の年末、2回目のアメリカ訪問の時のハナシ。
ロサンゼルスに住む友人宅に世話になり4~5泊くらいさせてもらう間、
その友人宅を拠点にさらに地方に1泊2日で旅に出る、というのをよくやってました。

旅のコンセプトは「知らない小さな街めぐり」です。
地元のスーパーの雑誌コーナーの片隅なんかにあるロードマップを4ドルくらいで買い、
ルートをぼんやりと(あくまで「ぼんやり」がキモです。キッチリ決めない)想定する。
ロサンゼルスに着いた時に借りたレンタカーで北へ行くか南へ行くか。はたまた東へ行くか。
ちなみに西には行きません。西には海しかないので(笑)

その時ぼんやりと決めたのは「北へ行こう」でした。
どこに泊まるかなんて決めません。テキトーに走り、テキトーに何か食べる。
夕方になってきたら適当な街でモーテルに泊まるのがこれまた楽しい。予約も要らないし。
看板に“VACANCY”とあれば空室あり。“NO VACANCY”とあれば満室です。

で、ロサンゼルスから、カリフォルニアを南北に走るU.S.ステートハイウエイの101号線を北上。
2時間ほどでサンタ・バーバラというリゾートシティにたどり着きます。
そのリゾートシティには目もくれず、その時目に留まったのが
サンタバーバラからさらに北にちょっとだけ走ったところにあるロス・アラモスという街でした。

この街、ほんとに小さい。200メートルちょっとしかないメインストリート。
目に付いたのはスーパーとモーテル1件、それから営業してるかどうかわからない
すっごく古いホテル1件、あとはレストラン1件とレンタルビデオ屋があったかな。

時間も時間(L.A.からの出発が遅く既に夕方6時くらい)だったので、この街で
泊まることに決定し、さっき見かけたモーテルに突入。客はガラガラ。
クルマを停めてオフィスに行くと、しばらく何の返答もない。

少し大きな声で「へぇるるろぉーう!」と声を掛けると、
住まいになってると思しき奥の方から、短パンに白ランニングシャツという
客商売にしては極めてカジュアルと言わざるを得ない装いで、
元IOC会長のサマランチを彷彿とさせる顔つきのオヤジさんが出てきた。

僕「今夜一部屋空いてますか?」
サマランチ「何人だ?」
僕「1人っす」
サマランチ「30ドル。現金だ」
僕「O.K.」

クレジットという洒落たシステムに加盟してなかったのか、
はたまた今夜の飲み代が手持ち不足だったのか、
東洋人の僕が不審だったのかは定かではないが30ドルをペロペロッと払うと、
サマランチはカギを渡してくれた。
渡し際に明朝のチェックアウト時間を聞く。レストランもある事は知っていたので
夕食はそこで食べようと思っていたのですが、そのレストランが8時に閉まることも教えてくれた。
(は、早い・・)

指定された部屋の前にクルマを移動し、荷物を降ろしてドアの鍵を開ける。

・・・・・・・開かない。うーむ。

暫し格闘するも、どうにもならないので再びサマランチを呼び出します。
これまたガチャガチャやってたがやっぱだめ。
どうやら鍵が壊れてるらしい。

すると部屋を換えてくれるという。
新しい部屋の鍵を取りに行く時、サマランチが呟きました。
「くそー、あの娘っこめー」
どうやら前の客は女の子だったらしい。
気を取り直して新たに鍵を渡された部屋に入ります。あーヤレヤレ。

そのモーテルの部屋。古めかしいけど結構好きな感じ

とりあえずテレビなどを点け一息入れ、
小さなスーパーにも行って飲み物やらスナックやらを買い込みました。

「そろそろ夕飯でも食べよう」

8時には閉まってしまうレストラン。食いっぱぐれは何としても避けなくてはいかんのです。
近い距離だけどクルマで行っちゃうもんね。

勇んでレストランに向かいます。
小さい街のレストランも悪くない。楽しみだなぁ。

しかし・・・・この後大変な思いをすることになるとは、
この時全く予想していなかったのでした。

(次回に続く) ←すんません。ちょっと書き疲れてしまったので。。

2010年12月14日火曜日

平日7:30A.M.の記憶

さて。
毎度おなじみ(?)の懐古的エントリの時間がやってまいりました。


今日、というか今これを書いている時間が既に12時を回っているので
正確には昨日ですが、ツイッター

「トラのプロレスラーはシマシマパンツ♪」

という書き込みをしたところ、予想通り全く反響はなかったのですが
個人的に色々と思い出してしまいました。

というか、何の歌かご存知です?

そう、私が子供時代を過ごした昭和の時代、フジテレビ系列で朝7:30から
放映していた子供番組「ママとあそぼう!ピンポンパン」(これ声に出すの恥ずかしいなぁ)
でいつも最後にやってた体操の曲なのでした。
お聴きになりたい方はコチラ (やはり恥ずかしいのでサムネなしで・・^^;)

これ流行りましたよー。
当時読んでたマンガなんかでも劇中で主人公がこれ踊ったりしてたもんなぁ。
作曲は小林亜星さんなんですね。作詞はなんと阿久悠さん!!!うーむ。

この番組を見てから家を出て、
同級生の星山君(元気かなぁ)と一緒に小学校に行く、というのが日課でした。

思えば当時は民放の子供番組って多かった気がします。
ほかにも日本テレビ系列の「おはよう!こどもショー」なんていうのもありましたね。
「ウッドペッカー」なんかの米国アニメも枠内でやってた記憶があります。
放送時間は平日朝7時台だったはずだから、ええ?その当時はまだ
ズームインとかやってなかったのか!これは今では考えられないですね。。

今では朝の子供番組はNHK教育の独壇場ですね。
わが息子(ほぼ3歳)もご他聞に漏れずスイちゃんとサボさんのファンです
(何の番組か分からない方、すんません。テーマ曲をトータス松本さんが歌ってます)

ちなみに私にとってピンポンパンと言えばこの曲
この曲とこの人は自分の子供時代を象徴すると言っても過言ではないかも知れません。
うーん、あれはアレだね。初恋に近い恋心を抱いてたね(キリッ)←何胸張ってんだオイ
 この曲の作曲は服部克久さん。今聴いてもすごく美しい旋律だと思います。。


小林亜星さんとか服部克久さんとか、もちろん他にもたくさんいらっしゃるのでしょうけど
日本の作曲家の方々の、子供たちに対する情操教育への貢献度は計り知れませんね。

2010年12月1日水曜日

アメリカの家???


















ちょっと今回はいつもと違った感じのエントリです。少しだけお仕事絡み。

 
実は11月27・28日と、普段仕事でお世話になっている長野市の輸入住宅ビルダー、
藤岡備建さんが開いた完成見学会の臨時スタッフとしてお手伝いに行ってきました。
「いらっしゃいませー」とか慣れないことに取り組んできたので、ちょっと緊張したのが正直なところ。

で、上の写真をご覧下さい。
これアメリカじゃないですよ。日本、それも地元の長野市内です。

左側にバイクも並んでいますが、これはこのお宅の施主さん(ご主人)がハーレー乗りで、
アメリカの家+アメリカのバイクというコンセプトのもと長野市のハレー・ダビッドソンディーラー、
モトロマンさんとのコラボレーション展示会という趣向で開かれたのでした。

この藤岡備建さんの手による輸入住宅、特にこの「アメリカの家」は、私が言うのも何ですが
本当にアメリカの家の匂いがします。

以前、県内某所に建てられた家をやはり仕事絡みで拝見しに行った事があったのですが、
玄関のドアを開けて中に入った瞬間、ロサンゼルスに行った時に実感する
ホテルやモーテルの中の「向こうの家のあのにおい」がして、思わず住んでる方に
英語でしゃべりかけてしまいました(これは嘘)。

独特かつアメリカ特有の屋根。社長さんが自ら設計します。















それもそのはず、同社の藤岡社長さんは、かつて大手工務店の輸入住宅事業部で修行を積み、
何とラスベガスまで行って家を建ててきた経験もあるというんですから。
 その後も事あるたびに渡米して向こうの家づくりを研究し、独立してからはシアトルに現地スタッフを常駐させて、家づくりのほとんどの部材を直輸入しています。



洗面台も直輸入。向こうのホテルなどはそのままこんな感じです




















さらに、設計も社長自らが図面を描きます。特にこだわるのは屋根の形状。
「アメリカの家の外観は屋根で決まる」と言うほどで、建て主さんの希望する間取りを踏まえつつ描いていきます。一見2階は屋根裏部屋しかないように見えても、しっかりと部屋を確保できている点もポイントです。また、これまた向こうではごく一般的に見られる家と一体化したガレージを備えている点も大きな魅力の一つ。クルマやバイク好きな方にはたまらないですね。

日本で求められる住宅性能はしっかりと確保しながら、間取りや細かな造作、部材の選び方などは経験に裏付けられた米国の家づくりの本流を外さない。
なので、巷でよく目にするアメリカ「風」の家ではなく、これは「アメリカの家だ」と感じたのでしょう。

今回、住宅のビルダーとバイクショップのコラボレーションは初めてだったとのことですが、家に興味を持って来場された人がバイクに興味を持ったり、またその逆も多く見受けられました。全くの異業種でありながら背景に共通のテイストや文化を多く持つカテゴリーでのコラボレーションは、予想以上の相乗効果を生んだと言えるかもしれません。

バイクだけなく国内ではあまり見かけないBBQコンロも展示しました














こんな写真も撮ってみました。何か友人を呼びたくなるなぁ
















 うう。。。いいなぁこんな家。
先立つモノさえ何とかなれば(ならないけど)マジで考えちゃうよなぁ。
働こう。シャカリキになって。。。(T_T)